第1巻 舞姫 ヰタ・セクスアリス ほか (鴎外近代小説集)

詳細

• タイトル: 第1巻 舞姫 ヰタ・セクスアリス ほか (鴎外近代小説集) de 森 鴎外
• ISBN: 4000927310
• ファイル名: 第1巻-舞姫-ヰタ-セクスアリス-ほか-鴎外近代小説集.pdf
• 発売日: 2013/3/29
• ページ数: 400ページ ページ
• 出版社: 森 鴎外

鴎外の 「 普請中 」という作品には、「舞姫」のエリスとの、日本における再会を思わせる記述がある （ 創作という説もある ）。・ ・ ・ 暈（くま）のできたために一倍大きくなったような目が、じっと渡辺の顔に注がれた。 「キスをして上げてもよくって」 渡辺はわざとらしく顔をしかめた。「ここは日本だ」（「普請中」より、一部抜粋）明治期 未だ国家が整備途上であった日本の「普請」を支える官吏の一人であった鴎外自身の、相手の恋心を知りつつ「フィリステル」（偽善者）を以て自認した、淡々とした描写が続く作品のラストの部分に、女の 「 回想 」 の形を仮借して青春時代の ｐａｔｈｏｓ が吐露される。・ ・ ・女が突然「あなた少しも妬ねたんではくださらないのね」といった。チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。（「普請中」より、一部抜粋）回想の挿入部分が、簡潔だが音楽的効果を伴い、読者の眼前に若い留学生と踊り子が睦まじく言葉を交わす様子を彷彿とさせる。 カタカナ･ひらがなの丁寧な使い分けが、実によく効いている。抑制的なトーンの中に、” ｎｉｌａｄｍｉｒａｒｉ ”のスパイスが効いた 「 大人向けの味わい 」､とでも言うべき佳品である。.以下少し細かい部分についてもレビューしてみる。「去年の暮からウラヂオストックにいたの」 「それじゃあ、あのホテルの中にある舞台でやっていたのか」 「そうなの」 「まさか一人じゃああるまい。組合か」 「組合じゃないが、一人でもないの。あなたもご承知の人が一しょなの」少しためらって。「コジンスキイが一しょなの」 「あのポラックかい。それじゃあお前はコジンスカアなのだな」 「いやだわ。わたしが歌って、コジンスキイが伴奏をするだけだわ」 「それだけではあるまい」 「そりゃあ、二人きりで旅をするのですもの。まるっきりなしというわけにはいきませんわ」 「知れたことさ。そこで東京へも連れて来ているのかい」 「ええ。一しょに愛宕山に泊まっているの」 「よく放して出すなあ」・あのポラックかい・・・エリスも、ポーランド出身である。ポーランドの女性は、大変美しい。・知れたことさ・・・男と女の関係について、隠す様子もなく話題にしている。かつて関係を持った男女であることが知れる。・よく放して出すなあ・・・コジンスキイが主人公（渡辺）と女の「 （この夜の）関係 」を予め容認していることへの驚き。.「アメリカへ行くの。日本は駄目だって、ウラヂオで聞いて来たのだから、あてにはしなくってよ」 「それがいい。ロシアの次はアメリカがよかろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」 「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」 「うむ。官吏だ」 「お行儀がよくって」 「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」・あてにはしなくってよ・・・日本の興業収入をあてにしない意味と、暗に渡辺からの資金提供も不要との意味。コジンスキイも渡辺に会いたがっているので、幾度か女とコジンスキイに日本から資金援助していることが推察される。・お行儀がよくって・・・ドイツ滞在時に女と交際していた時は、社会的地位だの世間体だのに捉われない男であったのに、はるばる日本に来ている自分（女）に対してよそよそしい振りをする渡辺を皮肉っている。愛情を表に出さない渡辺に少し苛立っているのである。・おそろしくいい・・・自分の意に反して、日本の旧式な社会道徳に従って生活していることを自虐的に表現している。欧州滞在時には思いきり羽根を伸ばしていた・・・男女の関係も含め、自由を楽しんでいたということである。・本当のフィリステルになりすましている・・・フィリステルとは、「パリサイ人」のことだが、ここでは西欧の自由で文化的な空気も知らずに、封建的な価値観に捉われたまま、あくせく働く、異教徒たち（⇒明治の一般的官吏たち）のことを指している。.「キスをして上げてもよくって」 渡辺はわざとらしく顔をしかめた。「ここは日本だ」 たたかずに戸をあけて、給仕が出て来た。 「お食事がよろしゅうございます」 「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺はたって、女を食卓のある室へ案内した。ちょうど電燈がぱっとついた。 女はあたりを見廻して、食卓の向う側にすわりながら、「シャンブル・セパレエ」と笑談（じょうだん）のような調子でいって、渡辺がどんな顔をするかと思うらしく、背伸びをしてのぞいてみた。盛花もりばなの籠が邪魔になるのである。 「偶然似ているのだ」渡辺は平気で答えた。・わざとらしく顔をしかめた・・・女への思いと、フィリステルの仮面と比較して後者を選んでいる自分へのやるせない感情があるのである。意識下であるが、女へのｅｘｃｕｓｅもある。間違いなく、渡辺はこの女を、「 昔は無かった目の暈（くま） 」 を気にするほど、いまだに愛しているのだが、そんな素振りは見せない。・シャンブル・セパレエ・・・「個室」であるが、女のニュアンスは「二人きりの密室」である。ドイツ留学中に、女と関係した時と同じシチュエイションなのである。女は、この夜、若く楽しかったときの、かつての愛を確かめたいと、一人で渡辺に会いに来ている。すげない渡辺に、「今晩この私を愛さないって、本当なの？」と、あらためて渡辺の本心を探っているのである。.まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面おもてを包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。・まだ八時半ごろ・・・女と夕餉の後、関係を持てば、このように早くには帰せぬ時間である。女は久しぶりの逢瀬に期待して、渡辺に会いに来た。しかも着飾って。自分のすべてを、今も愛している男に投げ出す覚悟で、「商売にならぬ」と分かっている日本に立ち寄ったのである。・一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った・・・渡辺は、フィリステルになりすまして、最後まで演じきったということなのだろう。しかし、Ｎｉｌａｄｍｉｒａｒｉ を標榜しながらも、女の「寂しい気持ち」が痛いほど分かり、仮面の下で密かに苦悩しているのも、渡辺自身なのである。